日本を離れてアジアで輝く女性たち、“いい気”と“元気”のお裾分け。
〜ホスト役:佐保美恵子(ノンフィクションライター)より〜
2004年、私がここチェンマイに移り住んで以来、北タイを中心に国籍、職業、年齢を超えて、おもしろい出会いがたくさんありました。
なかでも印象的なのは、日本を飛び出して海外で働く女性たちが輝いていること。
デザイナー、アーティスト、研究者、ビジネスウーマン、通訳、NGOスタッフなど職業はさまざま。
言葉や習慣の違いなどのハンディ、失敗を乗り越えながら、彼女たちは自分の可能性にチャレンジして、海外で自分らしい生き方を見つけています。
そして不思議なことに、みんな一生懸命だけど表情が穏やかで、彼女たちのまわりには爽やかな風が吹いているのです。
それは欧米が舞台ではなく、ちょっとスローライフで人も心優しいアジアが活動の舞台だからかもしれません。
そんな女性たちを訪ねて、日本を離れるまでのこと、海外での仕事や活動のこと、苦労話、これからの夢などを対談スタイルで伺っていきます。
さあ、彼女たちから “いい気”と“元気”、お裾分けしていただきましょ!

第1回シリーズのゲスト:「バーンロムサイ」代表・名取美和さん

1946年東京生まれ。1962年、ドイツに留学して商業デザインを学ぶ。帰国後、雑誌や広告の仕事に携わり、1966年に再びヨーロッパへ。1969年、長女を出産。以後、ときには子連れで日本とヨーロッパを往復しながら、通訳やコーディネーターとして活躍。東京・六本木で西洋骨董店を営んだのち、1997年にタイ・チェンマイへ。インテリア小物のデザインや制作をしながら、1999年からチェンマイでHIVに感染した子どもたちの施設「バーンロムサイ」の開設に取り組んで、その代表として活躍中。
⑪ちょっと口うるさいおばあちゃん?


佐保 美和さん自身が必死に動いても、周囲のタイ人スタッフがそれについていけず、活動が思うように進まない。開設後しばらくの間、そんな時期があったと美和さんから伺ったことを覚えています。私が取材をかねてバーンロムサイを訪ねていた2001年から2003年までは、まだ美和さん、本当に忙しそうでしたもの。「私がやらないと何も動かないから」っておっしゃっていました。
名取 それは、毎日毎日、オフィス棟に行って、スタッフ全員にこうして、ああしてと四六時中指示してね。でも今は、ほとんどメールですむし、私が頻繁にオフィスに顔を出す必要はなくなりました。
佐保 1日1度は、顔を出しますか?
名取 それは、1度は、顔を出しますけどね。とくに子どもたちの問題があるときは、必ず顔を出します。この子は塾に行かせるべきかどうかとか、学校で問題を起こしたとか、授業についていけないとか、いろいろあるんですよね。でも子どもたちも成長したし、以前に比べたら随分、手を離れたという感じはしますね。
佐保 子どもたちにとって、美和さんってどういう存在なんでしょうね?
名取 多分、ちょっと、祖母というか…。
佐保 ちょっと若いおばあちゃんっていう感じですか?
名取 そういう感じでしょうね。ちょっと、口うるさいおばあちゃんですけれどもね。「すべては、あなたたち自身のことでしょっ!」て言う感じで。でも、そんなに心配することなくなったんですもの。第一、もう命の心配をしなくてよくなったわけだし。それは、もう以前の状況と決定的に違うことですね。
佐保 そうですね。それってすごく大きいですね。
名取 以前は、ちょっと風邪を引いただけでも、すごく心配してたのね。(*HIV感染で免疫力が低下している子どもたちにとっては、風邪も油断できない病気だった。それが抗HIV剤の服用で、以前に比べて免疫力低下を抑えることができるようになった) でもテントをもってキャンプに行って雨にぬれたりしても、「ああ、雨ねぇ」って言う感じで…。それはもう、心配の度合いが以前とは全然違いますからね。
  オフィスの窓から話をする美和さんとバーンロムサイの子どもたち。子どもたちが成長し、美和さんの心境がお母さんからおばちゃんになったことを除けば、この光景は8年前と変わらない。

佐保 美和さん自身も変わってきて、子供たちをとりまく状況も変わってきているっていうことですね。でも変わらないものもあります。そのひとつが、バーンロムサイの活動はいつだってクリエーティブなこと。

私たちもいろんなNGOの人たちとネットワークがあるんですけれど、他のNGOバーンロムサイの大きな違いはこのクリエーティブな活動に積極的に取り組んで、そこからお金を生み出すところじゃないかと思うんです。
もちろんデザインの得意な人が関係者にいるとか、いろんな条件が揃っているから、バーンロムサイがそういうことができるという点もあるんですけれど…。

最初から美和さん、おっしゃっていましたよね。「寄付のために企業をまわって、頭を下げて歩くことばかりするのは嫌。自分たちでなんとか自立のための活動を展開しなきゃダメ」だって。その自立の手段として『モノを作る』というクリエーティブな活動があるんだと思いますが、そういう発想は美和さん自身から出てきているものですか?
名取 私自身が「クリエーティブでありたい」と思って活動しているのではないんです。何か、こういろいろとやっているうちに、それを解決する道がクリエーティブな方法、クリエーティブな手段をとると次第に解決できていくっていう感じですよね、すごく変な感じだけど。

たとえば「これから自立していかなければならないけど、どうしていけばいいの?」って考えるとき、「じゃあ、もっと寄付を集めましょうか」って考える人と、「じゃ何とか会員を増やさなくっちゃ」と考える人といるんでしょう。でも私の場合、「それじゃ、何かモノを作って売りましょう」「展覧会で売店を出しましょう」とかいう発想になってしまう。モノを作ることが、解決の道になっていったから、そういう体質になったんじゃないかしら。

運営費に困ったとき、「ともかくワロロットでTシャツ買って、草木染めして売りましょうか」っていう方が、日本で会員を募集するよりも、私にとっては心地良い。
今度、子どもたちに学費がかなりかかり始める。「じゃあ、どうしよう。スポンサーを集めましょう」というよりも、「それだったら、織物をしてそれを売って資金を作りましょう」って。人さまに頼って寄付を集めるよりも、そんな方法で解決の道を探ってきたから、それが自然とクリエーティブなモノづくりにつながってきたんじゃないですかね。
佐保 そのクリーティブ活動の第一歩が、2001年から東京で毎年開催しているバーンロムサイの子どもたちの絵画展「アンダーザツリー展」だった。
名取 そう、最初は子どもの絵でした。初期のボランティアスタッフに絵を教えられる女性がいて、「子どもたちに何か表現活動をさせたいね」という話になって、2000年頃から子どもたちに自由に絵を描かせ始めました。思う存分、楽しく描くので、すごくいい絵が生まれるんですね。

それで「もったいない、こんないい絵だったら、きっと売れるでしょう」っていう発想で、「アンダーザツリー展」を始めたじゃないですか。それも、最初はいろんな人から「売れないわよ」とか反対されてね。でも売れちゃったんですよ。初回で452点、完売したんですからね。

それならばというので「絵葉書作ろうよ」とか「今度、日本人のアーティストとコラボレーションしてみよう」とか、「今度、絵を描いているところを番組にしてほしいな」とか…、いろいろとアイデアが出て発展していったんです。でも子どもたちも大きくなって、「もう、絵はいいよ」って言う感じ。それに教えてくれる人がいなくなってしまったから。でも絵に限らず、クマさんのプロジェクトなどさまざまなものづくりのアイデアを展覧会には生かしています。

<ミエコのちょっとあとがき>
 「メー・ミワ(ミワかあさん)」と子どもたちから慕われ続けてきた美和さんが、バーンロムサイ開設10年を迎えて、「心境はおかあさんじゃなく、おばあちゃん」だと言ったのが印象的でした。まだまだ課題は多いけれど、それは美和さんに精神的、時間的に余裕が出てきた証拠だと思います。薬を服用という条件つきではありますが、子どもたちがとりあえず元気で成長してきているからでもあります。何人かの子どもたちが亡くなった時期を知っている私としては、今の状況は「本当にありがたいこと!」だと思うのです。
 それからバーンロムサイのモノづくり活動。これも最初から一貫していてすごい。クオリティーの高さ、デザイン性などは半端じゃありません。デザインセンスがいいとか、販売ルートがあるとか、いろんな条件が揃っているといえばそうですが、それは一朝一夕でできたものではなく、やはりコツコツとバーンロムサイが築いてきたもの。ものづくりによる強烈な自立志向は、新しい形としてほかのNGOにとっても、多いに参考になるところだろうと思います。

対談シリーズ「アジアで生きる女たち/名取美和さん」は毎週火曜日に更新されます。この続きは次週火曜日をお楽しみに。

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