旧知のライターの朝山さんに登場願った。
もう何年前でしょうか?
う〜ん、20年はこえると思うのですが。大阪から東京に出てこられて、直ぐに友人の紹介で会い、仕事を始めたりしたのです。以来、20年?ライターとカメラマンという関係で仕事をしてきました。
 その朝山さん、ずいぶんと著者インタビューを手がけてきました。朝山さんが選ぶ人選ぶ人、皆さんどんどんメジャーな賞を取って巨匠になる。なので、巨匠なる前の作家を知っている、僕も写真を撮ったりしている。この巨匠、えらくなる前は服屋さんだったんだよなんてね、思ったり出来る。
 そんな朝山さん、見る目がある朝山さんに日刊チェンマイ新聞でも書評をお願いしたのです。
奥野


 

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古処誠二著『中尉』(角川書店)

 こんな人間がよくも軍医になれたものだ。
こいつはバカか。主人公はそう心中で罵り
つづけてきた男に、落涙してしまう。
 生死をともにする戦場で身近に接してい
ながら、男のことを何も知らずにいた、心
のなかを見抜けなかったこと深く後悔する
のが、古処誠二著『中尉』(角川書店)です。
 こんな文章から始まります。
〈伊与田中尉は軍医である。メダメンサ部
落における任務では衛生兵二名と寝食をと
もにしていた。結果、武装強盗団(ルビ・
ダコイ)にさらわれることになった。した
がってわたしはことのあらましを衛生兵か
ら聞くしかなかった。〉

 語り部は、軍医の護衛にあたっていた軍
曹で、尾能 ( おの ) という。その彼の目に
「軍医」の存 在は、見てくれといい物腰と
いい、やることなすことすべてが不満だっ
た。

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《声に張りがなかった。むしろかすれ気味
だった。たとえるなら風邪気味の老人のそ
れに近かった。かつ発音が明瞭とは言いが
たく、場合によっては泥酔者のそれを思わ
せた。「わたし」という自称はともすれば
「あたし」と聞こえた。》
 中尉が「あたし」というたび、毅然とし
た軍曹がイラッとする様子が思い浮かびま
す。
 ひとまわりは年上と思い込んでいたら、
後に一才ちがいだと人づてに教えられ、尾
能は驚くのですが、それでも軍医の顔つき
は老人のようで、行動も逐一機敏さに欠け
、 なんといっても帽子の被りかた一つにして
もだらしなく、いつも斜めに傾いでいる。
ひげの剃り跡から歩き方にいたるまで、何
から何まで癇に障るわけです。
 応召された軍医とはいえ中尉。だのに現
地のビルマ人と見分けがつかないくらいに
溶け込んで見えることも腹立たしい。尾能
は、《任務でければ一秒たりとも時間をと
もにしたくない》とまで毛嫌いするのです。

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 いっぽう中尉はというと、そこまで嫌わ
れているのを承知していたのかどうなのか、
軍曹に結婚しているのかなど、あれこれと
話しかけてくる。ほとんどはつまらない話
で、始めると止まらなくなる。それも、軍
曹からすると面白くない。
 堪えきれず、ある日軍曹は中尉に意見し
ます。
「軍医殿はもう少し目に力を込めているべ
きです。ならば少しは貫禄がでます」
 上下関係を重んじる人間なら、怒鳴り返
してもおかしくはない場面。しかし、のれ
んに腕押し。それゆえ、いっそう軍曹の反
感を買うことになる。ネタバレ気味になり
ますが、膨らみきったその「悪感情」が、
あるときを境にオセロのように反転してゆ
くのがこの小説の醍醐味です。
 中尉が「あたし」と発声していた、ある
いは尾能に親しげに話しかけてきた、その
理由を知ることで読者は必ずや圧倒されて
しまいます。

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 読み終わり、これは「眉山」だなと思い
ました。
 亡くなった作家の藤原伊織さんが、自身
が考えるハードボイルドの一例としてあげ
ておられたのが、太宰治の10ページくら
いの短編でした。
「若松屋も、眉山がいなけりゃいいんだけ
ど。」と、男が悪ふざけに言う。
「眉山」とは、新宿の若松屋という居酒屋
で女中として働く「トシ」という娘を、彼
女の無知を酔客たちがからかってつけたあ
だ名で、彼女はインテリの客たちを見かけ
ると話の輪に首をつっこんでくる、年は二
十歳ぐらいだけど美人とは言いがたく、二
階の客間にお調子を運んでくる際にはいつ
も階段をドスンドスンとやかましい。ガサ
ツ。そんなこともあって、常連客たちから
バカにされるのですが、何を言われても笑
って平気な顔をしている。

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 主人公も彼女のことをバカにして笑って
いたひとりですが、じつは彼女はバカでも
根がガサツなわけでなかった。ドスンドス
ンには理由があったのです。あえて暢気そ
うにふるまっていたのだとわかる。
 彼女が店から姿を消して、体調にかかわ
る事情をはじめて知った主人公は、自分が
まったくそのことに何ら気づいていなかっ
たことを深く後悔するのですが、それは遅
い。ガサツに見えていたものが、そうでは
なかった。
 ハードボイルドとは言い訳をせず、自身
がなすべきことをなす。そういうひとの立
ち居振る舞いを客観視点で描くものだと、
ワタシが気づかされたのは短編の最後にい
たってのことです。
 以来、いっそう藤原伊織さんの作品を好
んで読むようになりました。

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 さて、『中尉』はすでに記したように、
上官の拉致の報告から始まります。
 幕開けから不穏な空気は蔓延し、常に何
か起きそうで、張り詰めた緊張の糸を保ち
ながら「その何か」はなかなか芽吹きはし
ない。初期のゴジラ映画のようなタメとい
いますか、潮目の分岐点となるのは敗戦に
よって進駐してきた英軍の将校が「消えた
中尉」について、尾能を尋問する。嫌疑の
正体が掴めぬままに交わされる問答はスリ
リングです。おそらく、映像化されること
があるなら、密室でふたりが差し向かう、
まさに静寂にしてこれほど熱気を孕んだ場
面となることでしょう。小道具として、欠
かせないのは、ある銘柄のタバコです。
 中尉の名前が「勝利(かつとし)」である
ことを尾能が初めて知るのも、この尋問の
中でのことで、ささいですが印象深いシー
ンです。

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「勝利」という名を聞いて、軍曹は名前負
けだと感じる。だらしなく映るところだけ
を目にしていた彼は、このときもまだ何も
気づいてはいなかった。自分が知る軍医に、
その名にふさわしい、ちがった時間を生き
ていた日々があったことを知らないのです
から無理もない。もちろん、読者もまだこ
の時点では知るよしもありません。

 すこし横道にそれますが、小説全体を支
配する緊迫した空気というのでいうと冒頭
に示される、軍医が強盗団に拉致されたと
いう報告。これはいったい誰に対するもの
なのでしょう。軍曹の叙述には一種、弁明
めいた気配すらうかがえます。
 誰に対する、何故の弁明なのか。
 再読して思うことがあります。回想する
「いま」はいつで、尾能のいる場所はどこ
なのか。そうしたことにもつい気がいって
しまう。よくできた、はじまりです。
 話す人間があるからには、聞く側のシル
エットが必要です。いっこうにその聞き手
の存在は影のまま見えてこないのも不思議
といえば、不思議な小説です。

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 勘のいい読者なら『中尉』をいくらか読
み進んだあたりで、舞台がビルマ、消息の
知れない日本兵にまつわる話と聞き「対英
戦争」をしかけるビルマの原住民ゲリラに
合流した旧日本兵たちの風聞、英雄譚を予
想するのではないでしょうか。「軍医」と
いう職歴や長く消息がつかめないというあ
たりに、ボリビアの山中に消えたチェ・ゲ
バラを想起する読者がひとりやふたりはお
られるかもしれません。

 確認のため、あらためて話を要約します
と、語り手の尾能軍曹が配置されたのはペ
ストが発症した部落で、「軍医」は村民の
治療と伝染を防ぐことに専念、軍曹は護衛
を任務としていた。日本の敗戦は間近で、
英軍の進駐を前にしてビルマ人たちが日本
兵を見る目にも変化があらわれていた。だ
からこそ、尾能は軍医に中尉として軍人ら
しく振舞うことを要望し、不満を募らせる
のです。

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 その軍医を中心に、後方に配置された軍
隊とペストの村の日常が語られてゆくわけ
です。
 と、掻い摘めば、ペストの村という特殊
性もあり、極限状況を描いた「特別な話」
のように思われもするでしょうが、再読し
てみてワタシは考えをあらためました。
 これは戦場に限らない、普遍の問題を扱
っているのではないのか。「眉山」を思い
起こしたのもそれゆえです。考えてみれば、
一貫して古処誠二の作品の勘所はそうだっ
たのでしょう。舞台を戦場の後方とすると
は、非日常のなかの日常を描くことでもあ
るわけですから。
 ネタバレに関することなので、あえて曖
昧な言い方をすると、この小説は、両眼の
視力を損なっても尚生きようとする、生き
伸びる理由を求める、市井の人間の葛藤と
跳躍を描いたものだといっていいでしょう。
比喩であって、もちろん軍医が盲目となる
わけではありませんが。

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 再度の確認。『中尉』は、敗戦間近のビ
ルマ戦線が舞台で、古処誠二の一連の戦記
ものを読み継いできた者にとっては、いつ
もながらの気配のただよう幕開けで、いつ
もながらの「戦地」を描きながらも銃弾飛
び交う前線から遠く離れた後方を「定点」
とし、市井の歩兵の目に映るものを物語る
姿勢も一貫しています。
 ここであえてつけくわえるなら、臨場感
のある戦記小説であるもかかわらず、アク
ション的な見せ場の乏しさはこれまで以上
に徹底しています。限定された舞台上の劇
を見るような、それも内面ら迫る不条理劇、
心理劇のおもむきが深められ、ある意味、
読み手を選ぶ作品かもしれません。
 しかし、現状の古処誠二にとって、これ
は最高作といっていい。絞り込んだ文章、
寸前まで疑いなく見えていたものの印象が
後半、押し寄せる波濤のように一転してい
く様、爽快というのではなく、感涙という
のでもない。霧のなかに立ちながら、形容
しがたい清涼感に包まれる。まさに「眉山」
です。

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Profile/プロフィール

朝山 実(あさやま・じつ) 1956年、兵庫県 生まれ。地質調査員、書店員などを経て 、ライターとなる。「居 場所探し」をテーマに人物ルポやインタビューを数多く手がける。著書に『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP 社)、映画のノベライズ『パッチギ!』(キネマ旬報 社) 、アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年』(KADOKAWA)、『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社)など