旧知のライターの朝山さんに登場願った。
もう何年前でしょうか?
う〜ん、20年はこえると思うのですが。大阪から東京に出てこられて、直ぐに友人の紹介で会い、仕事を始めたりしたのです。以来、20年?ライターとカメラマンという関係で仕事をしてきました。
 その朝山さん、ずいぶんと著者インタビューを手がけてきました。朝山さんが選ぶ人選ぶ人、皆さんどんどんメジャーな賞を取って巨匠になる。なので、巨匠なる前の作家を知っている、僕も写真を撮ったりしている。この巨匠、えらくなる前は服屋さんだったんだよなんてね、思ったり出来る。
 そんな朝山さん、見る目がある朝山さんに日刊チェンマイ新聞でも書評をお願いしたのです。
奥野


 

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『くちぬい』坂東眞砂子、集英社

【いつも本の中に、、】②

『くちぬい』坂東眞砂子、集英社

妙だ、と思ったら、気配のするほうを見るのがふつうにする行動でしょう。猫や犬なら耳をたてるでしょうし。しかし、日本人って独特だなぁと思うのは、あえて妙なものは見えていませんよって反応をする。
たとえば、電車の中で、奇声を発したりして車内を往復する子供を見かけることが、わりとある。車内のひとの反応は、三つにわかれる。子供を目で追うのはごくごく小数。ときおり様子をうかがうのが半分、残りの多数派は見ない、我関せずの態度。メンドウだからってやつね。
ワタシはというと、じっと見てしまうほうで、電車の所掌さんの真似をしたり、国際情勢をアナウンサー顔負けに読み上げるひとがいたり、なかなか愉快で、くすっと笑ったりする。
とくにこちらから話しかけるわけでもないけれど、目があったりすると、一瞬、彼(どうしてだか男子率が圧倒的)の動きがピタッと止まったりするけれど、自然とまた繰り返しに入っていく。
で、坂東眞砂子の『くちぬい』(集英社)だけど、これは、妙だなぁという出来事に対して、敏感に反応するひとと、ドンカンを装うひと。夫婦にして、両極端に分かれてゆく様を描いてスリリングな小説だ。
一見、仲よさげに見えていた夫婦が、あることから関係が軋んでいく様をものすごく生々しく描いている。実は、それ以前の段階で冷え込んでいたというのが、読んでいくうちにわかってくるのだけど。ハタから、いつも一緒で仲のいい夫婦だったのにねぇ……といわれがちなタイプってことだ。
妻は、「あのひとたちが悪さをしかけているんだわ」と多少ヒステリックに、近隣のひとたちを非難しはじめた。

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夫は妻を、あなたは感情的になっていると宥め、それは大げさすぎると取り合わないものだから、「こんなことが起きているのに、思い過ごしって何よ」と妻は怒り、「もういい、あんたは頼りにならない」と家を飛び出す寸前。ふたりが直面している危機は、ある意味、いろんな事象に置き換えうる物語でもある。

 すこし話は横道にずれるけど、電車のドアの脇のところを好むひとは多いと思う。出るのに便利で、もたれかかれるから楽。流れてゆく車窓の風景をみながら、ぼんやりとしていられるとか、理由はあるのだが、困るのは「ぼんやり」を妨げるひとが現れることだ。電車がすいているほど、なぜか、その確率は高い。
どうも、このスポットは、ダベリに夢中になっている集団を引き寄せるものらしく、こないだもワタシの目の先、20㌢くらいのところに背中を向け、ぺちゃくちゃぺちゃ、と話が喧しいオバサンたちにうんざりし、さっさと場所を明け渡した。
なんで突然、あのひと、あっちにいっちゃったのかしらというようなコトを会話に没頭しているオバサンは抱かない。そこがオバサンの所以っていうか、ワタシに背を向け、ぐいぐいカバンを押し当てていたオバサンがあいた空間にすっぽり収まり、何事もなかったかのように、ぺちゃくちゃぺちゃ、を続けている。やんわりとした拒絶反応って、なんの意味もなしはしない。「じゃまだよ」とかすごんでみせるほかねぇんだろう。

 離れて観察してみると、オバサンは三人組で、着ているものとか提げているバッグとかはちがうのだけれど、これはどっかで見たことが、、、と思ったら、チデジに切り替わってからテレビを見なくなったので忘れかかっていたが、チイ散歩の通販コーナーに視聴者モデルで登場する、若ぶったマダムの方々である。

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こぶりのバッグをタスキがけにし、足首までのズトーンとしたスカートの先から出ている平べったい靴はいて、「カルチャー」のにおいをプンプンさせて仲良さげに話し込んでいるつもりでも、実は仲良くなんかないんだろうな、互いに張り合っているかんじで、いとおかしだ。
それはいいとして、あらためて文字にするようなことでもない、実にささいなことなんだけど、ドア口に立っていて、背面をみせて攻め込んでくるのはオバサンに限ったりはしない。部活帰りの中高生の集団のこともあるし。男女を問わないし、年齢も、色合いもさまざま。
それでも彼ら彼女らに共通しているのは、先客をカンペキに無視しちゃえるってことだ。
ドアのところまでささっと近づいてくると、くるりと背中を向け、ぜったいに振り返ったりしない。ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ。たいてい、仲間内の井戸バダ話で、国政とか原発がとは論じたりはしない。目線も意識も内にしかないから、カバンがぐいぐい当たっても、こちらが不快になったりしても、気づかない。
なんかグチグチしちゃったけど、自分たちの外に、ひとがいるということを簡単に意識から消してしまえることって、なんだか恐いと思うのはワタシだけなのだろうか。
非難がましい言い方になってしまったが、ときには自分だってそういうことをやってしまっているのでは。
やったことはないとはいえない。ちょっと自分に甘かったりすることを考えると、これはこれで恐いことだ。

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これはもう腹をたててもしようがないのだろうが、ジャンジャカジャンジャカ、ドンドンドンドン。空いた電車で、座っていたときのことだ。激しく音を漏らしておられる、ボティコンファッションでキメキメの年齢不詳のお姉さんが、前のつり革を握っておられたので、「音をさげてもらえませんか」とおだやかに話しかけたのだが、絶滅したはずなのにいつ復活したのか、こってりメイクに髪を巻き上げたボティコンさんは、こちらをチラッとも見ようともしないし、音量を絞るでもない。聴こえてないのかも、と席を立ち、顔を見て声をかけてみた。
「あのぅ、音を小さくしてほしいんですけど」
ボデコンさんは、ツツツツッ、つり革ひとつぶん横にずれたものの、音を小さくする気配もない。というか、こっちに目線を送ったりもしない。目も顔も、不思議な訓練を受けでもしたのか、一点凝視のようにして、前を向いたまま。
見ず知らずの他人様にお願いするのだから、こちらもそれなりに、イッパンのガマンの許容内なんだろうか、しかし音が大きいんだよなぁ、とか考えた末のことではある。
しかし、ボデコンさんは、意思強固というのかなぁ、一点凝視を貫徹中でおられる。ホント、動かない。これにはびっくり。昔、大魔神って、怪物映画がありましたけど、そんな感じ。迫力ありました。

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ジャンジャカ、ドンドコドンドンドンに聴き入っています、というフリをしているというか、外界の存在を「ないもの」としてしまっている。完全シカトってやつですか。大魔神と思えば、なんか面白くなってきて、ワタシも開いていた本を閉じ、ファーブルがフンコロガシを観察するかのように見ていた。
じっと見上げているのだから、視線に気づいているのだろうし、それゆえの瞳は一点凝視なのだろうけど、なんせ大魔神だから、いつバッグでぶったたかれるかしれない。こちらも内心では、怒鳴られたり、ヘンタイとか叫ばれでもしたらヤバイかなとも思ったが、彼女は急行が次の駅に停車するまでの間、姿勢もくずさず、微動だにしないのだ。
もともと、耳にイヤホンをして大音量で音楽を聴くというのは、外界を遮断するという意思表示でもあるわけだが、ここまで徹底してくれると、あっばれというか。だけど、ボデコン以上に不気味に思えたのは、何か起きかねない空気のなかに居合わせた乗客たちで、ぐるりと見回したとき、いちばん「見えていません」を続けていたのは、このひとたちなんだよねと思ったら、シュールだった。

さて、坂東眞砂子さんの『くちぬい』(集英社)に戻ります。これは、東北を襲った震災後に書き下ろされた長編小説だ。震災のあと、書くことの無力感におそわれたと口にする作家さんがすくなくないなかで、あえて、放射能汚染から逃れるようにして、四国の山奥の村に転居し、第二の人生を歩もうとしている夫婦を主人公に選んでいる。

正直なところ、放射能とか、震災とかいうことばで、読むのをためらった。すぐに情況を取り込んだ小説ってコンビニ的じゃないの、、、というのがあるからだ。たぶん、坂東眞砂子でなかったら、読もうとはしなかったと思う。

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しかし、結論をいうと、読んでよかった。
妻のほうは、チイチイバッグを提げていそうな奥さんで、つまりは社交的でおしゃれ好き。夫は、定年後は窯をもって陶芸をやるのが夢だったという、趣味人。妻は、放射能から逃れることができて、ホッとしている。夫は、好きな陶芸に没頭できるとご満悦だった。退職金を注ぎ込んでの田舎暮らしは、成功。めでたし、めでたし。というわけには、いかない。
だって、坂東眞砂子だもの。
冒頭から、新天地での平穏な気配が描かれれば描かれるほど、不安にさせるのは、サムペキンパー監督の、アメリカから逃げてきた大学教授の夫婦のバイオレンス映画を連想させる。
村のひとたちは、とっつき悪そうに見えたけど、お知り合いになったら「村に若いもんが来てくれた」とそれはそれは親切で、あれこれ手助けもしてくれ、歓迎会を催してくれるわ、田舎のひとは閉鎖的とかいわれるから心配していたけど、杞憂だったわね。ずけずけと敷地に入りこんだりするのは田舎モンならではだけど、それくらいガマンしなきゃね。いいところだわ、引越して正解だったわと、ふたりして満足していた。
しかし、それが暗転する。ふたりは、なんも見えていなかったのだ。あのひとたちが。
だから、ある日を境、ささいなことから、「あのひとたちの誰かが、私たちを殺そうとしているのよ」と疑心暗鬼にとらわれてからはもう、坂東眞砂子の世界。

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発端は、亭主のこしらえた窯。そこに窯なんかつくっちゃならねぇと、村の口うるさそうなジイさんから、場所を移さなきゃダメだと言われ、「もう作ったんだし、とうか、ここは自分の敷地なんだから余計なお節介」と夫は突っぱねた。険悪になるかと思ったが、以降もあいかわらず村のひとたちの態度は変わるでもなく、にこやかだ。
そりゃそうだ、おかしなことは言ったりしていないと、夫は胸を張るのだ。定年退職した夫は公立学校の教員一筋、外から見たら、正論を押し通してきた変わり者というのが、ミソ。万が一のときは、オレはダンコ闘うぞ!って。東京では、そういうふうにやってきたし、やれてきた。気持ちが張っていたぶん、村人がなんも言ってこようとしないのに拍子抜けしたものの、言い分をのんで、村の年寄りたちは諍いを回避したんだなと思ったわけだ。

が、そうではなかった。誰だかわからないが、じわじわと悪意をもって、自分たちを追い出そうとして嫌がらせが始まった。動物の死体を玄関先に吊るすことから始まって、貯水への農薬混入疑惑。どんどんエスカレートしてゆく。

ほのぼのとした、ひとのよさそうな駐在の警官に相談に行くものも、のらりくらりと受け付けてくれそうにもない。ほのぼの好印象だった駐在さんに対する印象も、あいつらグルなんだというふうに変わり、村中で秘密結社でもつくっていそうな気配だし、妻は「もういや」と自分を引きずり込んだ夫に憤懣をぶつけ、ガミガミ。正体の知れない「外敵」への恐怖と、理想の夫婦に見えていたのが壊れていく負のドラマが同時進行で展開していくというのがスジである。

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つまり、スジそのものは既視感のあるシンンプルさなのだが、坂東眞砂子だなぁと思うのは、村のひとたちの笑顔で「よそもの」を歓迎しながらもその実、決して受けいれたりはしない、事が起これば結束し「よそもの」を連係プレイで排除しようとする、不気味さがねちっこく描かれている。おまけに、夫婦のいずれもが、感情移入しがたいひとたち。電車のドア口に迫ってこられようものなら、あけたくなるタイプ。かも、こんなのありなのってエンディングの後味のわるさがまたいい。

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Profile/プロフィール

朝山 実(あさやま・じつ) 1956年、兵庫県 生まれ。地質調査員、書店員などを経て 、ライターとなる。「居 場所探し」をテーマに人物ルポやインタビューを数多く手がける。著書に『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP 社)、映画のノベライズ『パッチギ!』(キネマ旬報 社) 、アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年』(KADOKAWA)、『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社)など