旧知のライターの朝山さんに登場願った。
もう何年前でしょうか?
う〜ん、20年はこえると思うのですが。大阪から東京に出てこられて、直ぐに友人の紹介で会い、仕事を始めたりしたのです。以来、20年?ライターとカメラマンという関係で仕事をしてきました。
 その朝山さん、ずいぶんと著者インタビューを手がけてきました。朝山さんが選ぶ人選ぶ人、皆さんどんどんメジャーな賞を取って巨匠になる。なので、巨匠なる前の作家を知っている、僕も写真を撮ったりしている。この巨匠、えらくなる前は服屋さんだったんだよなんてね、思ったり出来る。
 そんな朝山さん、見る目がある朝山さんに日刊チェンマイ新聞でも書評をお願いしたのです。
奥野


 

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『ヘン』というホンの話。

いしいひさいちと広岡達三との共著で、『ヘン』(徳間書店)という本がある。

 それはそうと、引越して来られて何年にもなるというのにウラのご婦人は、ワタシのことを微妙に間違った名前で呼びとめる。
たとえば信号待ちの時間に角のパチンコ屋の看板を眺めていたり、スーパーで秋刀魚かアジかで迷っているときに、背後から「あさひやまさん……」。
自分に対するものだと気づくまでに、ヘンな間があく。「ひ」は余計なのだ。曖昧にうなずくまで、さぞかしワタシは無愛想な顔になっているにちがいない。

「あのぅ、あさひやまさん、ですよね。ウラの○○です」
しげしげコチラの顔を見ておられるご婦人の間違いをただそうとハラを決めたとき、信号は切り替わり、犬の散歩中だった相手は引きずられるようにスタスタと何歩も先にいたりする。
ご婦人が口にされたウラというのは、もちろんへりくだりである。家の配置でいうと、アチラさんから見たらコチラこそがウラにあたる。それはともかく転居して10年にもなるのに、まるで近所のひとの顔をおぼえていないことじたいがワタシのモンダイなのだろう。そういうワタシが微苦笑してしまったのが、この本だ。

 漫画家のいしいさんについての説明は要らないだろうが、話題の本を四コマ漫画で書評する「文豪春秋」をゴーカに36本も付録にした、手の込んだエッセイ集だ。
共著の広岡氏のエッセイを読むのは、はじめてのこと。プロフィールには、“川上哲学門下の文士、同門に行動派作家として知られる長島茂吉がいる。寡作、遅筆で有名だが、作品はさほど有名ではない”とある。

いくつかエッセイを読むうち気づいたのは、広岡氏は、強いコンプレックスをお持ちのようだ。 ジブンがどう見られているか。いっこうに気にしていない。無頓着な昔かたぎの文人である、というのを演じるきらいがある。
世間の風に惑わされぬ自由人でありたい。そう願いつつ、世間の目が気がかりでしかたない。多くの作家がそうであるように、さらに多くの一般人がそうであるように「気にしている」ことを覚られまいとして「気難しいひと」だと見なされ、いつしか偏屈に拍車がかかる。「あるがまま」を綴ればスキマからねじれた心中が垣間見えてしまう。作品よりも、存在が有名というのも納得。独白が軽妙なエッセイ集だ。

たとえば「挨拶と孤独」と題した一篇では、広岡氏は自分から挨拶することはめったにない。「や、どうも」と返礼をするのがほとんどだと述べている。
たわいない、だからどうしたという瑣末な話である。いかに自分は世間に認知された存在であるか。自慢である。これだけならジコチューな文人でしかないが、語るほどに愛嬌がにじみでるのが広岡氏である。

〈それにしても、怪訝に思うのは、私は、挨拶をされることがどうも多いのではないかということである。先日は、小学校二、三年の男の子に、「こんにちは」といわれた。手伝いの女性に聞くと、よくいく文房具店の孫ではないかということだった。そういわれれば、店主のそばに、男の子か女の子かは忘れてしまったが、子供がいたことがあったように思う〉

 これで終わらない。さらに。高校生らしき美少女に挨拶をされて、どきまぎしたこと心境も記さずにはいられない。それが、のちに隣家の孫娘だったとわかったということも。
恥をさらすのが、モノカキの業というもの。なるほど広岡氏はなかなかの文豪である。
しかし、この純文学作家「広岡達三」にはモンダイがある。偏屈で尊大。しかし根は小心。その内面を全開にした、さも現存する作家のそれに読めてしまうのだが、いしいひさいちの漫画から生まれた架空の人物なのだ。
人体のパーツを縫い合わせてモンスターを誕生させたのはフランケンシュタイン博士だが、広岡達三の場合は彼を模したフィクションのエッセイによって、さらにその肉体をかたちづくるにいたったということか。
と、〆ようとして、フランケンシュタインも、映像の印象が強いが、あれはあれで女性作家の小説が原型だったことを思い出してしまった。さて、どうしたものか。

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『お父さんはここにいる』というホンの話。

 では純文学作家・広岡達三の正体は誰なのだろうか? おそらくと思うのが『大問題』など、いしいひさいちと長年コンビを組んできたコラムニストの峯正澄氏である。

 峯正澄といえば、お父さんたちが主人公の短編小説集の傑作がある。あまり知られていないようだが、『お父さんはここにいる』(成甲書房)だ。初版は2000年。
新幹線の主役が「ひかり」の時代だったころ。ビールとシューマイのにおいが漂う夜の車内を、冒頭、ハンディカムのビデオで撮ったかのように綴っていく。ファインダーに収まっているのは、ひとりの中年男だ。

〈「誰も来るな、誰も来るな」と、四十一歳のお父さんは心に念じていた。かてて加えて「来るんなら、美人来い、美人来い」とも念じた。〉

空いている隣の席が塞がらないことを願う主人公に、ついうなずいてしまう狭い料簡にワタシがいる。
その切なる願いもむなしく「お父さん」の隣に座ったのは、〈目の玉の飛び出した、犬みたいな顔の、見るからにいやな感じの中年男だった〉。好ましからざる男の一挙一動が「お父さん」をイライラさせるのだ。

棚に上げた荷物を下ろしては上げ、中身をテーブルに品物を並べて、またしまう。 さらにコートのポケットを探り、〈汚いハンカチ、カギの束、小銭入れ、路上でもらった一ダースばかりのポケット・ティシュー、ハンコ、くしゃくしゃに丸めたレシート、手袋、なぜか数珠まで出てくるのであった。
「つぎは、ハトでも出すつもりか?」〉

お父さんが突っ込みをいれるのは心の中だけで、口にはださない。
車両中の視線を集めイライラさせた男の乗車券は、ありふれたところから出てくるのだが、彼の挙動から心を奪われたお父さんはもうダメだ。「えらい、すんまへんな」と口にしながら、まるですまなさが感じられない男のなすことすべてが気に食わなくなる。

いちいち眉をしかめるお父さん越しに、もうひとりの男の姿が3Dのように浮かびあがってくる。この短編のよさは、トラブル・コントのような一幕のあと、静まりかえった車中でのお父さんの心情描写だ。加害者と被害者という固定の考えをゆらす、そよそよとした風を吹き込んでいる。
冒頭の短編「新幹線のお父さん」をはじめ、収録された連作短編に共通しているのは、主人公に名前がないことだ。俺でもボクでも私でも彼でもない。名前は、「お父さん」。
読者に向けた「お父さんは」の語りかけは、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」のナレーション、それも矢島健一の響きに似ている。これといって特別なところのない主人公に寄り添おうとする、何者かの目線がここにある。

小説の手法でよくいわれる「神の目線」のように、お父さんを見守る何者かは冷ややかではない。手を差し延べることはないものの、ともに微苦笑したり、ともに眉根を下げたり、ともに喜んだり。とりわけ子供との接し方にうじうじする「お父さん」から目をそらせず、いつしかお父さんと読者を一体化させる、そんな小説だ。
しんみりと没入するのを嫌ってか、いしいひさいちの一ページ漫画が休憩タイムのように入っていて、柿ピーみたいに楽しめるのもいい。

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Profile/プロフィール

朝山 実(あさやま・じつ) 1956年、兵庫県 生まれ。地質調査員、書店員などを経て 、ライターとなる。「居 場所探し」をテーマに人物ルポやインタビューを数多く手がける。著書に『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP 社)、映画のノベライズ『パッチギ!』(キネマ旬報 社) 、アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年』(KADOKAWA)、『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社)など